自己紹介

本研究室は私、木元裕亮が、さしあたり一人で立ち上げ、運営しています。

ここでは簡単に私の自己紹介をさせてください。その中で、私が本研究室を始めようと思った理由も、それなりの仕方で明らかになってくるはずです。

以下では、簡易版プロフィールのあとで、私の人生を時系列で追いかけてみます。改めて見てみると、よくいえばそれなりに紆余曲折があって、ちょっぴり波瀾万丈、意地悪くいえば単に(少なくとも組織社会にあっては)ダメな人生ですね。

でも、少なくともこの程度のドロップアウトぐらいはするようでないと「哲学」なんてできないんじゃないの、とも思うのです。

簡易版プロフィール

1986年生。東京大学文科一類に進学するも、大学時代に「哲学」という一種のバナナの皮を踏んで滑って転んでしまい、二回留年。卒業後は大学院に進学して、修士課程では「社会思想史」、博士課程では「哲学」、特にドイツ哲学・思想を専攻。

その後も、それなりに順調に研究を進めていたつもりだったが、実はバナナの皮が靴の裏にへばりついていたのか、博士課程三年のとき、現状のアカデミズムへの不適応を実感し、大学院を離れ、29歳にしてITベンチャー企業に就職。しかし、企業組織にも不適応だったため、当時の会社の仕組みの問題点を包括的に捉える論考を勝手に完成したタイミングで退職(在職は約半年)。

ここまでで法学部・大学院・会社員と三度のドロップアウトを繰り返す。どうもまだ自分にあった組織の形態に巡り合えていないようだった。

さて、会社の退職後、ちょうど立ち上げ期にあった自学自習型の大学受験塾に転がり込み、ひょんなことから教室長に就任。高校生を指導する傍ら、読書・研究生活をそれなりの仕方で再開。

そのなかで、やはり「哲学」をしていきたいという思いが募り、哲学等を研究するとともに、「哲学すること」を教えながら、そのことを通じて、まずもって自らが「哲学すること」をあらためて学ぶために、この私設研究室の立ち上げを計画。

これから先の人生がどうなるのかは、専ら、この研究室の立ち上げの試みを通じて、どんな人たちや「ことがら」たちと、どんな風に出会うことができるかにかかっている(と思う)。

私の人生を時系列で振り返ってみると…

誕生から高校時代まで

私は1986年に神奈川県川崎市で生まれ、その後、小学校に入るタイミングで両親が一軒家を購入し、茨城県最南部の守谷市に移住しました。バブルと重なっていたためでしょう、一軒家を得るには茨城に行くしかなかったのだと思います。

その後、微温的に教育熱心だった親の勧めで塾に通いはじめ、中学受験を経て西日暮里にある開成中学・高校に進学しました。

開成はただただ自由放任な学校でしたから、片道一時間半を超える通学や、いささか集団主義的な運動会以外は、特に文句はありませんでした。

聞くところによれば、「開成は運動会で人を育てている」らしいのですが、そうだとすると運動会に一度たりとも熱心に参加していない私は、中高時代にはまったく(少なくとも学校の教育によっては)育たなかったということになるでしょう。

それは冗談としても、振り返ってみるとき、ここにすでに生じていた組織的・集団的なものへのアレルギーとでもいうべきものは、その後の自分の人生のあり方を予示するものではあったな、と思うのです。

それこそ、こうしていま私は、いくつかの組織の経験を通過したうえで、やはり既製の組織一切を拒否して(あるいはむしろ組織に拒否されて)、新たにこの研究室(?)を立ち上げようとしているわけですから。

大学進学と「哲学」との出会い

時系列に戻ると、高校を卒業後、私は東京大学文科一類に進学します。開成→東大文一、ここだけ切り取ると私は日本のエリート街道のど真ん中をひた走っていた(笑)わけで、いささか古い時事ネタでいえば、それこそ、官僚になり、国会議員になり、果ては秘書に暴言を吐いてニュースにもなりかねないような経歴といってもいいでしょう。

しかし、幸か不幸か、そうはなりませんでした。受験が終わって一息ということもあったのでしょうか、すでにして大学一年時には私は法学への意志を、それどころか基本的には一切のものへの意志を沮喪していたのです。

何に取り組んでみても、いまいち身が入らない、どんなものにも本当に意義があるようには感じられない。こんなとき、もちろん、まずもって何もしないという選択肢が浮かび上がりますし、私にも実際そのような感じで不貞寝していた時期が多かったわけなのですが、私の場合、もう一つの選択肢が徐々にほの見えてきました。

それが「なぜ、どんなものにも本当に意義があるようには感じられないのか?」という問いを問うということです。それがとりもなおさず私にとっては「哲学」との出会いでした。

何かに本当に意義を感じられるなら、それをやればいい。でも、何にも意義を感じることができなければ、もちろん、行動派なら「とにかくいろいろとやってみる」ことを勧めるでしょう。他方で私のような非行動派、もう少々よくいえば書斎派にとっては、「何もしない」ことが現実的な選択肢です。

ただ、そこにはもう一つの選択肢があるわけです。それが、この意義が感じられないということそのものを問いの対象にすること、つまりは「哲学」です。私にはこれこそが「何も意義が感じられない」というときに可能な唯一の抜け道であるように思われますし、その意味で、それは私にとっては必然的な選択肢だったのです。ただ「哲学」だけが、何らの意義や価値も前提にしない試みだと思われたからです。

大学院進学と私と哲学の「蜜月時代」

こんなわけで「哲学」に足を踏み入れていった私ですが、どうも学部二年生時点では文学部に進む踏ん切りもつかず、そのまま法学部に進学、さらに大学院に進む踏ん切りもつかず、法学部で二回ほど留年を繰り返します。自分の優柔不断さが改めて自覚されて、我ながら書いててちょっぴり悲しくなりますが。

さて、しかし、二回留年でもう後がないというところで、なんとか踏ん切りをつけて教養学部の大学院(総合文化研究科)に進学、さすがにいきなり「法学部」から「哲学」は…という今となっては謎の思いから、まずは「社会思想」専攻となりました。

こちらは留年時の蓄積もあってストレートで修論を提出し卒業しました。いま読み返すと若気の至りで恥ずかしいばかりですが、私なりの大作ではあって、私の20代前半までの総括となるような内容でした。専攻は「社会思想」といっても、実際の内容は「哲学」といっていいものでした。

さて、続いて進んだ博士課程では晴れて哲学専攻となり、ヘーゲルやフロイトやハイデガーなどドイツ哲学と楽しく戯れていましたが、同時に「あ、自分アカデミズム向いてないなぁ」と自覚していく時期でもあり、ときにはやはりつらい気持ちになることもありました。

というのも、それは、やっと出会えたと思えたもの、「哲学」が、現代にあっては自分が適応できないような仕方で社会的に組織されているということに気づいていくことでしたから。

アカデミズムへの不適応とドロップアウト

具体的に見ていきましょう。まず、私は大人数の前で話すのが苦手なので学会発表はやりたくないですし、「哲学」というのは常に何がしか全体的なものだと思っているので、1~2万字程度の学術論文という仕方で何かを書きたいとも思いません。

さらに私にとって障壁だったのは「先行研究」なるものです。私の認識するところ、アカデミズムの哲学にあっては、「先行研究」なるものに以下のような位置が与えられていたように思われます。

まず研究者は、研究対象となる哲学者、例えば、ハイデガーならハイデガーを選び、ハイデガーの書いたものを「一次文献」とする。それに対してハイデガー研究者(や他の哲学者)がハイデガーについて書いたものは「二次文献」ということになり、この二次文献が「先行研究」と見なされる。

そして「哲学研究」とは、対象となる哲学者が書いた一次文献の研究であり、そこでは二次文献を先行研究として踏まえつつ、一次文献について、この先行研究で明らかにされていないことを明らかにすることである。

私には、端的にいって、このような仕組みをとる意味があまり理解できませんでした。もちろん、それはそれで悪いとは思いませんし、哲学者が述べていることを明らかにする上で、それなりに意義のあることだと思います。

しかし、私にとっては、研究対象は「事象」「現実」「(人間の)生」「世界」とでも名指すべきなにものかであり、これこそが、それこそ「世界という大きな書物」ではありませんが、基本的には「一次文献」であって、カントなりヘーゲルなりハイデガーなりが書いたものが、すでにこれらについての「二次文献」です。

もちろん、彼らはやはり偉大な哲学者、すなわち「世界の探求者」ですから、私たちとしては彼らの書いたものに大いに学ぶべきです。

しかし、こう位置付ける以上、彼らについての研究はいわば「三次文献」であって、「二次文献」の、自分なりの探究にとって重要な部分がどうしてもしっくりこなければ、確かに時には参照するべきではあるにせよ、それ以外の場面では特に必要もないし、ましてや研究に必要不可欠なものという地位に据えるべきものとも思えません。

以上のような性向をもち、また考えを持っていましたから、私は学会発表もほとんどしなければ、論文も全然書かないし、書いても査読を通らないという状態でした。

しばらく前の、アカデミズムに余裕があった時代であれば、こんな感じでもなんとか大学に就職できたのかもしれませんが、大学教員市場が供給過剰になっており、業績生産競争が激しい現在ではそうでない。それで、学会発表やら論文という形で業績を作れない自分には大学教員になるのは無理だなぁと思ったわけです。

いささか「酸っぱい葡萄」的ではありますが、このように不可能性を自覚し、それを前提にして考えてみると、そもそも大学教員という道が自分にとってそれほど魅力的なのかとも思えてきます。

昨今の大学は、自らの社会的な存立基盤が解体されていくなかで、「成果」を求める風潮に迎合せざるを得ず、それに支配されはじめていますから、大学教員になったとしても私の作りたくない「発表」やら「論文」やらの形式で「成果」を作らなければならないのでしょうし、イベントや企画などもどんどん開催しなければならなかったりするのでしょう。

大学は大きな組織ですから、組織運営も大変なはずです。そう考えると、組織嫌いの私からすると、なんだかなぁとも思ったわけです。

そんなわけで、博士三年が終わったところで、大学院を離れる決意をします(当時の文章:「まだアカデミズムで消耗してるの?」—大学院を離れたときのこと)。

遅まきの就職と再びのドロップアウト

いまとなっては自分とアカデミズムでは目指すところが違う、くらいの冷めた認識が私のなかで支配的になっていますが、当時はやはりそうではなかった。アカデミズムでなされるような哲学のあり方は間違っている、自分の方が何らかの意味で正しい、そんなふうに思っていました(まぁ、いまでも結局のところはそう思っているんですが)。

さて、そんな当時の私の認識は、かくして、学会発表やら論文やらというのは、自分に合わないだけではなく、時代にも適合していないのではないか、いや、もっといえば、それらは時代に適合していないのだから、私がそれに合わないのも仕方ない、その合わなさは正しいといったものでした。

では、どのように適合していないのでしょうか。そこで重要だったのは、学会にせよ論文にせよ、それらは情報の伝達のためのものとして、本質的にはメディアであるという観点です。

そのように捉えたとき、メディアの形態そのものは情報技術の発展によって本質的な進化を経験している以上、これからはこれらの古い形態のメディアに依る必然性はないのではないか、むしろ、それを刷新していくべきなのではないかと思われたわけです。

そうして、私は遅まきながら29歳にして小規模ながらWebメディア事業を擁する、いわゆるベンチャー企業に就職します。50名程度の会社でした。私はWebメディアに可能性を見出したわけです。

最初の三ヶ月は目新しい環境と経験が与えてくれる多幸感によって楽しく働かせていただいたものの、やたらと批判意識ばかり強い私のこと、四ヶ月目以降は、いろんなことが見えてきて(あるいは見えてきたつもりになって)「あ、いま会社で自分がやっている仕事って無意味だな」と感じるようになり、あまり実際的な仕事をしなくなって(それでもなんとかなるのが会社の面白いところですが)、当時の会社の仕組みについての批判を勝手に理論的に練り上げる作業に集中するようになります。

私はこれを称して、「実務」に対する「虚務」と呼んでいました。その自分なりの理論的把握(あまりに早く既存事業となった「新規事業」—会社員時代の経験から)が完成したとき、その内容を社長にも伝え、私は退職しました。ちょうど入社から半年が経ったころでした。

大学受験塾立ち上げへの参画から、現在へ

さて、この会社を辞めたとき、何もあてがなかったわけではありません。当時、ひょんなことをきっかけに知り合った知人が塾をやっており、二番目の校舎がちょうど立ち上がるタイミングだったのです。

私はそこに転がり込み、先任者が別の事業の立ち上げを始めたために、その後はその教室の責任者を務めることになりました。

まったくの生徒ゼロの状況から始まり、賃料の負担に追われながら、なんとか生徒を集め、どうにか塾の経営を成り立たせる、本当につたなく不十分なものでしたが、このプロセスを経験できたことは、自分にとっては大きな財産になりました。

この塾は自学自習スタイルですから、とくに何かをするべき必要のない時間も多くあり、大学受験生に教えるために各科目を復習ないし新たに学ぶことに加えて、会社員時代、その前の大学院時代末期には諸々の事情から離れてしまっていた読書に、再び回帰することもできました。

もちろん、「哲学」もそうですが、昔から好きだった「社会学」、そして高校の復習から興味が再燃した「歴史学」、昔は好きではなかった「法学」、またベンチャーに入り、塾の立ち上げから興味を持つようになった、「技術」や「Web」や「経営」や「教育」といった諸トピック…。

これらについて興味の赴くままに読み進めることは非常に楽しいことです。と同時に思うのは、高校生に高校科目を教えるのも楽しいですし、続けてはいきたいのですが、やはり、こういった読書がもっと直接に生きるような仕事もしてみたいということです。

もちろん、高校範囲といっても、英語や国語は実際には範囲の限定などありません。文章は、さまざまなことを知っていればいるほど、そして、それを結びつける力があればあるほど、読めるものですし、また面白く感じるものですから。

ただ、やはり範囲という制約、点数という制約、時間という制約…、受験指導にはこういったもろもろの制約がつきものであることも避けがたい事実です。そういった制約のない場所で、端的に世界と知的に向き合う経験、それそのものを事業化してみたい、そういう思いがやはり日々、募ってきたわけなのです。

これから―それでも哲学を続けるために

こうやって自分と哲学との関わりを振り返ってくると、いろいろな思いが巡ります。

人生そのものにつまづいた暗中模索のなかで哲学に出会い、それに否応なしに惹かれつつも、それを表立ってやる踏ん切りがつかず、一人悶々としていた学部時代。

その後、ようやく大手を振って(?)哲学をやれるようになって、一時期はそれを楽しめていたものの、最後にはその現状の社会的な組織のされ方に自分が不適応だと気付かされた大学院時代。

一度は哲学を離れた会社員時代、そして、やはりもう一度それと向き合って、再び哲学をしたいとの気持ちを温め始めた、受験塾の運営の時代(半ば継続中)。

これから、私において種々のことがうまくいくかどうかはまったく未知数ですが、私としては、哲学を研究し、哲学することを教えながら、自分自身、哲学することを学びたいと願っています。

ソクラテスからフランス現代思想までの伝統的な哲学に学び、自らの考えを練り上げつつ、現代の英語圏の哲学の展開をも踏まえながら、おそらくは科学や技術の進歩が「人間の条件」を変えていくであろう21世紀、人間のあり方において、そして社会のあり方において、その進展をどのように受け止めていけばいいのか、そんなことを皆さんと、「哲学」というものを一つの焦点としながら、考えていければと願っています。

このような企てと営みを通じて、「哲学」、すなわち、私の考えるところでは、あくまで自分というものを堅持し、このちっぽけな自分において人類の来し方と行く末、その運命全体を引き受けようとする不遜で無謀な試みである「哲学」というものを、それを望む人に対して、少しでも広く享受可能にし、またそれを後世に引き継いでいければ、私としては、いまのところ、本望だと言ってよいでしょう。

「いまのところ」というのは、私はたいていの場合、すぐに今やっていることの無意味さに打ちのめされてしまうからです。今回のこの試みが成功し、私にとってもはや次のない試みになることを―。今回の試みが、一定程度軌道にのりさえすれば、その可能性は高いだろうと思っています。

なんといっても、第一に、これは既存の組織に依拠しない形で、私が純粋に自分だけで最初から始めた、そのために、もはや誰か他の人や組織を批判しつつ離反することもできない、試みなのですし、第二に、「哲学」こそが、たえず既存の意義を踏み越えつつ、つねに新たに新しい意義を生成せしめる運動として、たびたび襲う無意味さの経験に対して、真に持ちこたえる力を、人間に、与えてくれるはずなのですから。

以上です。長々とお付き合いありがとうございました。