本研究室の主な研究課題について

本研究室の現在の主たる研究課題は以下です。

哲学を問う 否定的なものを通って肯定的なものへ

第一の課題は、純粋哲学上の立場を練り上げることである。具体的には、私が思うところのヘーゲルの根本的立場を展開し、認識論・存在論・倫理学という哲学の根本諸分野において、一貫した立場を創り出すことを目指す。その根幹には、人間は自己意識であることによって、自己と世界への否定的距離であるという認識、そして、このことこそが人間の人間性の本質をなすという認識が置かれ、そこからして、認識論・存在論・倫理学上の根本的な原理が展開されなければならない。その行き着くところは、いまの私の思うところでは、肯定的なものの肯定性は、それが否定する否定的なものの大きさに依存するということ、言い換えれば、あるものの価値論的可能性は、そのものの存在論的不可能性に依存するという倫理学上の立場、である。

哲学史を問う 愛・労働・戦争から見るドイツ近代思想

第二の課題は、第一の課題と相互作用の関係に立つことだが、哲学史を辿り直すことである。具体的には近代以降のドイツ哲学ないし思想史なのだが、これを私はヘーゲル法哲学の立場から見直したいと考えている。ヘーゲル法哲学は、その最終部、第3部「倫理」を、家族・市民社会・国家を分割したが、これをそれぞれの中核をなす人間の行為ないし状態からして捉え返せば、愛・労働・戦争となる。この三つをヘーゲルは近代社会の根幹をなすものとして取り出したわけだが、思うに、ヘーゲル以後のドイツ哲学ないし思想も、この三つを軸として捉えることができる。すなわち、労働を扱った哲学者としてマルクスがおり、愛を扱った思想家としてフロイト(と、私が思うに、ルーマン)がおり、戦争を扱った哲学者としてニーチェとハイデガーがいる、というわけである。この観点から、これらの哲学者たちを読み直すとともに、そのことを通じて、第一の課題の哲学上の立場を鍛え上げることが重要であるように、私には思われる。

近代を問う 資本主義の論理と倫理、その歴史について

第三の課題は、以上で獲得されるはずの哲学上の立場を堅持しながら、それを社会哲学へと展開させるものとなるべきである。現代における社会哲学上のもっとも重要な問いといえば、やはり、近代社会を構造化するもっとも強力な力であるところの、資本主義に関わるものでなければならない。明らかに資本主義の強力な浸透力こそが近代社会の普遍性そのものの基礎にある。第二の課題で触れたマルクス、さらにそれ以前にまで遡りつつ、資本主義の論理と倫理を歴史的に問い、その未来を展望する。それは、とりもなおさず、近代そのものを問うことへと通じているだろう。

現代日本を問う 戦後システムの解体の向こう側へ

第四の課題は、私たちが現に生きている現代日本の社会変化を問うものであるべきである。というのも、私たちは人間として、特定の時間と場所に住んでいなければならず、第一から第三の課題までのように、単に普遍性を問うべきであるのみならず、特定の時空間上の位置の特殊性とも関わり合わざるを得ないからである。そこでの私の基本認識は、現代日本の社会変化の根本問題は、戦後の社会システムの解体の向こう側を問うべきであるというものである。戦後に再出発した日本の社会システムは昭和末期に完成を迎えたが(いわゆる日本的経営を中核とし、それに対応する教育システムと、それを基盤とする福祉システムから成る)、平成はそれを種々の危機を迎えた時期だった。人口構成の変化(少子高齢化)、追う国から追われる国への転換(グローバル化)、情報技術によって加速する情報社会化による産業構造の転換(IT化)が、その危機の主動因であり、平成は各種の改革によって、これに応じようとしたものの、その改革は政治改革のように裏目にでるか、あるいは経済改革のように不十分で、既存の体制を延命するだけに終わるかであった。しかしながら、平成の後期以降、戦後日本の社会システムはもはや改革云々でどうにかなるような状況を超えて、少なくとも部分的には崩壊の様相を呈しており、だからこそ、なにがしか新しい動向が確立・拡大しうる余地が生まれつつある。令和日本の課題は、もはや平成のように既存のシステムをアップデートせんとする「改革」ではなく、既存のシステムの崩れ目から新たなものを作り出す「創建」でなければならないだろう。このような認識に立ちつつ、日本の現在と未来を問うこと、これが第四の課題である。

日本を問う ポスト人間宣言の天皇制の哲学のために

第五の課題は、他国と比した際に日本という国の特徴となっている「天皇」なる存在について問うことである。平成期には、冷戦の終結と情報通信技術の発展によるグローバル化によって、近代を特徴づける統治システムである国民国家は事実においても相対化されたし、また、おそらくはその事実的動向に応ずる形で、理論の次元においても相対化されたが、さしあたり国家機構は残り続けているし、よしんば国家機構が今後消滅ないし統合されていくとしても、言葉が通じるということを中核とした人間集団の凝集性そのものが消え去るとは考えにくい。このような認識を背景に、本課題では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である「天皇」について問う。それは、天皇の地位の根拠につき、「単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」と述べて、神話と伝説とを根拠として棄却したと思われる、いわゆる「人間宣言」のあとで、天皇の地位にいかなる根拠があり得るかを問い、その可能的根拠を提出しようとする試み、いわば、「ポスト人間宣言の天皇制の哲学」となるはずのものである。この課題は、敗戦と人間宣言以後、戦前に比して明らかに存在感を低下させた天皇制が、平成の末期、再び明らかにその存在感を増している状況に対応する。また、この試みは、日本という特殊性を徹頭徹尾問題とするものでありつつ、「哲学」であることによって、人間集団の肯定的な可能性一般を根拠づけるものともなるはずである。

教育を問う 教育の原理・歴史・未来を巡って

第六の課題は、教育について問うことである。これは、塾という場を中心として、教育に携わってきたという私の個人的経験に関わる。教育に携わることにおいて、教育実践の諸根拠への問いに囚われないことは難しい。教育はそもそも何のためにあり、いかなるものであるべきなのか。教育はこれまでいかようにあり、いまどうなっているのか。前の二つの問いが教育の原理論にかかわり、後ろの二つの問いが教育の歴史論に関わる。そして、この二つが交わるところに、未来の教育のあるべき姿が立ち現れてくるだろう。このような仕方で、私としては教育について問いたいと思っている。

未来を問う SFと哲学の相互貫入を目指して

第七の課題は、人間の未来を問うことである。2010年代以降、1970年以来の「成長の限界」「成熟社会」「歴史の終わり」といった、人間の進歩の終わりを主張する認識に対置されるような、技術発展に重きを置きつつ「人間の進歩」の再加速を唱道するような思考の潮流が現れてきた。2010年代に聞かれた議論を戯画的に単純化して述べれば、これからの時代は、すべてのものがインターネットに接続される「IoT(Internet of Things)」が全面化し、それらの「ものたち(Things)」が各種センサー等によって情報を集積することで途方もない「ビッグデータ」が蓄積され、それを第三次ブームを迎え、パターン認識の能力を獲得した人工知能(AI)が分析・判断して、種々のプロセスが自動的に作動していくのであって、これが人間社会を一変させるらしい。このような議論が、おそらくは、スマートフォンの普及を通じたインターネットの普遍化によることだと思われるが、経済界、そして広く一般に受け入れられるようになり、社会全体の雰囲気を再進歩主義化しているように思われる。このような情勢にあって、今後の人間の未来を占うにあたっては、技術発展の可能性をSF的想像力によって見通し、それを受け止める人間性を哲学的な洞察によって認識し、その両者を組み合わせることによってのみ、なにがしか有効な認識が得られるように思われるのである。