哲学とはなんであり、その意義はいかなるものか、そして本研究室の設立趣旨についての(さしあたりの)見解

本研究室は、大学の外でも「哲学を学ぶことを続けたい」という、私の個人的な希望を叶えるために作ったものです。

というのも、何かを「学び続ける」には、それを仕事にするのが一番だからです。だからこそ、大学の外で「哲学する」場所を作ってみたのです。

とはいえ、もちろん、自分の個人的希望だけでは事業として成立するわけがありません。だから、私も私なりに、この「哲学研究室」には事業として成立するに値する社会的意義がありうるだろうと、一応のところは考えています。

「一応のところ」というのは、結局のところ、それが本当にそうであることは、事業のそれなりの成功によってのみ示されるからです。

さて、それはそれとして、そういうわけなので、ここでは本哲学研究室が持ちうる社会的「意義」を二つの観点から論じてみようと思います。

まず、一つ目に、本研究室が研究・教育・発信したいと思っている「哲学」と「哲学的思考」について、それぞれが何であり、どう違うか、さらに、こちらの方がここで大事な論点ですが、それぞれの「意義」を論じたいと思います。研究・教育・発信する内容に何らかの「意義」のない研究室には、それこそ存在「意義」はないでしょう。

続いて、二つ目に、哲学が置かれた社会的状況に関する考察を踏まえて、「しっかりと、ほんとうに、哲学する」ということ、そのための場所の「意義」について論じたいと思います。こちらの議論は、現在「哲学」が行われているらしい他の組織ないし形態との境界づけによって、いまいわば「私設研究室」ないし「私塾」という形で哲学をすることの意義を正当化しようとするものです。

「哲学」と「哲学的思考」―その差異と各々の意義

私は「哲学」と「哲学的思考」を分けて考えたいと思っています。こうすることで、哲学の「(社会的)意義」、つまり、「哲学は役に立つのか」といった問いに答えやすくなるからです。

「哲学」とは何か(1)

さて、では「哲学(philosophy)」とはなんでしょうか?その原義は「愛-知(philo-sophy)」、すなわち、「知への愛」です。

そして、ソクラテス=プラトンが『饗宴』で明確に論じているとおり、愛とは求めることであり、求めるのは欠けているものがあるからです。

これがソクラテスの有名な「不知の自覚」の意味するところです。ソクラテスは自らの「不知」を自覚していた。だからこそ、自らに欠けている知を愛し求める運動に身を投じ、「愛知者(philosopher)」になったわけです。

ところで、この「愛知者=哲学者」という言葉は、「ソフィスト(sophist:知者)」との対置において考えられなければなりません。

ソクラテスの時代のアテナイには「ソフィスト」を自称する職業教師たちが多数おり、彼らはまさに「知者」として、実用的な役立つ「知」を売り物にしていました。

それに対してソクラテスはいわば「不知者」であり、そうであることで「哲学者」であったわけです。そして、そういうソクラテスがやったことといえば、「知者」を自称する人々に、その「知」について問い尋ね、独特の問答を通じて、その「知」を自壊させることでした。そこで生じる「不知」の自覚を通じて、あらためて「ほんとうのこと」を知りたいという欲望を起こさせることでした。

ここで「ソフィスト」が、役立つ実用的な「知」を提供していたがゆえに対価を受け取る職業として成立したのに対して、哲学者ソクラテスは「知」を自壊せしめるだけであり、だからこそ、その活動への対価を受け取ることはなかったという対比は印象的です。

それはそれとして、ここで重要なポイントは、ソクラテスの「不知」が何についての不知だったのか、です。それはデルフォイのアポロン神殿の入り口に刻まれた「汝自身を知れ」という、ソクラテスが独特な仕方で引き受けた命令に明確に現れています。

ソクラテスの「不知」は「自分自身」についての知の欠如だったのであり、自分自身が何者であるか、自分の生の処し方、自分はいかに生きるべきかに関する不知だったわけです。

それに対するソフィストの知とは、もちろん、一方では彼らが持っている実用的な専門知識のことであるわけですが、ソクラテスの視点から見れば、それは同時に彼らの自分自身についての「知」の意識、つまり、彼らが自らの生について疑問を持たず、自らの現状の生き方に自足しているように思われることだったのです。それをソクラテスは破壊します。彼の有名な言葉を使えば、まさに「吟味なき生は生きるに値しない」というわけです。

さて、ここにおいてソフィストによっても出会われる不知、ソクラテスの不知は、「善」についての不知ということもできるでしょう。というのも、「いかに生きるべきか」ということへのさしあたりの答えは、なんらかの意味で「善く生きるべき」というものであり、「善」こそが、この答えに内実を与えるからです。

ソクラテスの哲学の試みは、かくして「いかに生きるべきか」、そして「善」という中心点の周りに組織されることになったわけです。

すなわち、「私たちはいかに生きるべきか」「善とは何か」という問いの周りに。

「哲学」は役に立つのか?

ここから、私たちは「哲学の意義」、すなわち、「哲学は役に立つか」ということに対して一つの答えを得ることができます。

「哲学」は、「いかに生きるべきか」ということがそれによって規定されるところの「善」についての疑念、その内実の不確かさへの意識から始まります。

そうだとすれば、「哲学は役に立つのか」に対する答えの端緒は、「哲学は「役に立つ」ということの意味をそもそも変えてしまう」、もっと言うと「「役に立つ」を無効化してしまう」というものになるはずです。

というのも、「役に立つ」というのは、何らかの目的に対して言われることであり、「哲学」は、その目的なるものそのものが、それを背景にしてのみ成立するところの「善」の内実への疑念から生じる探究の道のりだからです。

それは最終的に真の「善」の発見と、そこから出発した「人生の目的」とそれに対する「役に立つ」ことの再定義に至るかもしれませんが、「善」の不確かさのうちに、つまりは、探究の道のりのうえに私たちを置き続けるかも知れません。

というのも、「再び-結ぶこと」を意味する「宗教(re-ligion)」や、「考えられ終わったこと」を意味する「思想(thought:過去分詞)」に対して、「知への愛」としての「哲学」は、欠けている答えを追い求める「問うこと」の運動性に重点があるからです。それが「答え」に重点がある「宗教」や「思想」と「哲学」の違いなのです。

こういうわけで、「哲学は役に立つのか」という問いに対する私なりの答えは以下のようなものになります。

哲学は、いかに生きるべきかを規定する「善」の内実を問いに付すことによって、「目的」なるものを宙吊りにし、そうすることでもって既存の「役に立つ」の定義をまずは無効化する。

それは「善」の再定義によって「役に立つ」の真の意味を明らかにする結果になることもあれば、こちらの方が蓋然性が高いように思うのですが、「善」を不確かなものに留めおくことによって、「役に立つ」がさしあたり定義不可能になる、そうすることで「役に立つかどうか」がとりあえずのところ「どうでもよいこと」になるという結果になることもある。

この道行き、真なる「善」を問い求めることは、私からすれば、すでに自分が持っている了見の範囲内で「役に立つ」ことを追求するよりも、無限に本質的でありうるし、だからこそ、どこよりも広い場所への冒険でもありうるわけです。

ここにこそ、つまり、偽なる立場に満足せず、あくまで「本質的であろうとすること」にこそ、哲学の根本的な意義があるのです。やはり、おそらくは一度きりの人生なのでしょうから、人は人間として生きることの「本質的なもの」に触れたいと思うものでしょう。

哲学徒である私の立場からすれば、知性の度合い、それは本質的にはその知性の視野の広さ(ないし深さ)によって計られるわけですが、それは以下のような指標によって間接的に推測しうるように思われます。

すなわち、第一に、視野がとにかく狭いために、眼前にある手段を遠くにある目的の代わりに自己目的化してしまうこと。第二に、それよりは広い視野によって、遠くにある目的を意識し、それに応じて目の前の手段を選択ないし改良できること。第三に、視野が(むやみに)広いために、遠くにある目的そのものが疑いの対象となり、手段がさしあたり問題でなくなること。

「哲学は役に立つか」は、この第二のレベルに属する疑問、すでに自分が引き受けている目的から手段を評価しようとする疑問です。しかるに、「哲学」の本義は私たちを第三のレベルの問題、何が本当に本質的な目的なのかという問題に、直面させることにあるのです。

こういうわけで、「哲学は役に立つか」に対する答えは与えられたわけですが、ちょっと拍子抜けというか、うまいこと話をはぐらかされたと思う人もいるかもしれません。「それって結局、哲学は役に立たないってこと?」というわけです。

「哲学」と「哲学的思考」の区別について

これに対して、私としては、私たちが普通にいう「役に立つ」ということを前提にしても、「哲学は役に立つ」と言える側面があるとも思っています。その側面を私は「哲学的思考」として、「哲学」そのものから切り離して考えたいと思います。

なぜ、わざわざこのような区別を行うのでしょうか。それは「哲学」の、いわば「高さ」を守るためです。

普通は「役に立つ」ということをいいことのように考えがちですが、「役に立つ」というのは「目的」に対する「手段」に関して行われる評価であり、そのように評価されるものは、それ自身が目的たりえないという、そのものの価値の「低さ」を含意します。

「哲学」は「価値」の探究として、その探究が「真の価値」という答えにたどりついて終わるまでは、「価値」の地位を代理するものであり、目的自体の地位を仮にではあれ占めうるものです。

かくして、哲学を「役に立つ」「役に立たない」で評価することは、哲学をその「高さ」に応じた仕方で扱わないことを意味します。

だからこそ、その「役に立つ」側面を、「哲学」ならぬ「哲学的思考」の意義として切り出すわけです。

「哲学的思考」と「哲学」の差異―「哲学」とは何か(2)

さて、では「哲学的思考」とは何なのでしょうか。これを明らかにするには「哲学」について、もう少しだけ論じる必要があります。

先にソクラテスにおける「哲学」の生成を論じました。ソクラテスは「汝自身を知れ」という命令を真剣に受け止めることで、自分が自分を、つまりは自分の生をしっかりと把握できていないこと、自らの知の欠如、「不知」を自覚し、そうすることで知を、とりわけ「善」についての知を愛し求めることとしての「哲学」へと駆り立てられていったわけです。

「哲学」は、このような地点から出発して、その後の歴史のなかで、いくつかの領域へと組織されたと理解できるように思います。それは通説的な見解にしたがえば「認識論」「存在論」「倫理学(価値論)」です。

このような区分の必然性は、結局、「哲学」そのものの可能性の根拠を問うことで与えられるように思います。つまり、なぜ、人間には「哲学」ができるのか、あるいは「哲学」をせざるを得ないのかと問うことから。

この問いへの、「私の」答えは「汝自身を知れ」の命令に明らかに現れている通り、「人間が自分自身についての意識、すなわち、自己意識を持っているがゆえ」、というものです。

これはデカルトからヘーゲルに至る近代哲学の流れの中で明確になってきたことだと私は思うのですが、認識そのものを問う「認識論」が可能となり、また必要となってくるのは、人間が意識していることそのものを意識する「自己意識」的存在であることによって、「認識しているということ」そのものが「認識」の対象となるからです。

認識していることを認識しなければ、認識論は成り立ちようがないし、逆に認識していることを認識してしまえば、必ず、認識と現実そのものとのズレが気になってきます。つまり、「見えているものは全て私の認識にすぎない、現実そのものとは違うのではないか」、と。ここで詳しく論じることはできませんが、デカルトは、この自己意識の構造の展開を無自覚的に遂行することで「認識論」を本格的に創始し、ヘーゲルはその無自覚の背後に回って、このことが自己意識の構造そのものに根ざしていることを明らかにしたわけです。デカルト的な認識論からヘーゲル的な認識する主体の存在論へ。

続いて「存在とは何か」「何が本当に存在しているのか」「そもそも世界はどのように存在しているのか」といったことを問う「存在論」。

カントが言うように、私というものがあらゆる表象に関して「私が考えているのだ」と言うことのできる、そのような自己意識であるというとき、(これはカントではなくヘーゲルが考えたことですが)私はあらゆるもの、すべてのものがそこに関係づけられるものとして、すべてのものの外、つまり、「無」のうちに座を占めます。

そのように「私」が「無」に触れているがゆえに―これがハイデガーのこだわったことですが―私は「存在」なるものを知り、それを論ずることができるわけです。

最後に「倫理学(価値論)」。自己意識とは、意識が意識自身を意識することであり、ここには意識が「意識する意識」と「意識される意識」に分裂するということが含まれます。自己意識において、意識はこれまでの自分自身を対象化し、それと距離をとり、ということは、それを何がしかの程度で否定し、超克するわけです。

ここに「倫理学(価値論)」の可能性の根拠があります。人間が自己意識であることで自己超克的な構造を持っていればこそ、所与のあり方を否定して自己を何がしかの規範にのっとって規律すること(=倫理)が可能なのですし、また、このような構造によって所与の価値を相対化することによってのみ、何が本当に価値があるのか、善とは何かを問うこと(=倫理学・価値論)が可能になるわけです。

こういうわけで、私としては「哲学」の根本問題は「認識論」「存在論」「倫理学」に区分され、それは「哲学」の可能根拠としての人間の自己意識性、意識が意識していることそのものを意識することという、人間性の根本構造に根ざしていると考えます。

そうであるとすれば、「哲学」の問いに答えるにあたっては、このこと、哲学を可能にしている構造そのものを徹底的に問い抜くことが重要であり、そこからのみ、「認識論」「存在論」「倫理学」にとっても、本質的な答えを得ることができるでしょう。この方向のために、一番重要な仕事をしたのは、やはりヘーゲルであるように思います。

さて、長くなってしまいました。この「哲学」を規定するための遠回りから本筋に戻り、ここから「哲学的思考」に話を持っていきましょう。

「哲学」とは、人間の自己意識という構造によって可能になるものであって、この自己意識という構造によって必然となる根本的な問いに関わりあうことでした。

では、「哲学的思考」とは何でしょうか。「哲学」が、上で述べたような構造そのものに関わり合い、それを問うこと、それに飛び込んで、その帰結を経験し問い抜くことであるとすれば、「哲学的思考」は、この構造を活用ないし行使することであると整理できるように思われます。

すなわち、「哲学的思考」とは、自己自身を対象化し、自らのメタレベルに立ちうるという能力を行使することで、いわゆるメタな思考を展開し、私たちがとらわれている諸前提を批判的に相対化することです。

「哲学」は、これを可能にする構造そのものとの関わり合いであることによって、この「哲学的思考」、あるいは「批判的思考」にとっての最良の教習場であるのです。

「哲学的思考」が役に立つ理由

さて、このように「哲学的思考(≒批判的思考)」を規定できるとして、それが「役に立つ」というのは、皆さんも自然に納得するところなのではないでしょうか。最近は世間でも「批判的思考が重要だ」などということがよく言われていますから。

しかし、根拠なしにこういった言説を信じてしまうのは、いかにも「非哲学的」です。なので、このことの背景として世間で言われていることも整理・把握しておきましょう。それは先進国全てに関わる社会変容に関わるものとして語られます。

曰く、まず第一に、1970 年ごろ以降、先進国はいわゆる「高度成長」を終え、「ゆたかな社会」「大衆消費社会」等々と名指されうる段階へと突入した。

この段階にあっては、それまでのように消費者のうちに既に存在している「定型的」な欲望に対応する「定型的」な製品を大量に製造・販売する「少品種大量生産」ではなく、様々な選好を持つ消費者の新たな欲望を喚起するような「多品種少量生産」が基本となります。そこでは生産者は、創造的なアイディアによって、新しい商品を考え、あるいは既存の商品のデザインを刷新し、あるいは斬新な宣伝手法を生み出していかなければならないとされます。

この流れが生み出す社会変容をある仕方で加速させたのが、これが第二の動きですが、いわゆる「グローバル化」による世界的な分業体制の確立です。すなわち、先進国の諸企業は労働力が安価な発展途上国に生産拠点を移転するようになり、そのために先進国の「製造業」は空洞化、先進国の仕事の中心は対面で遂行される必然性のある「サービス業」へと移行していきます。

このような二つの傾向は、言われるところに従えば、先進国を「脱産業化社会」へと移行させ、その労働を二極分化させていきます。

すなわち、一方には絶えず「創造性」を求められる一群の「クリエイティブ」な仕事があります。さまざまな技術の研究開発や、種々の事業や商品や広告の企画、メディア上のコンテンツ制作、あるいは多種多様に展開する金融産業・情報産業での種々の業務、そしてこれら一切に関わる「コンサルティング」といった仕事がこれに典型的に当てはまるのでしょう。これはいわば「脱産業化社会」の上側の極とでもいえるのでしょう。

では、下側の極は何でしょうか。それはグローバル化のなかでも先進国に残る必然性のある、対面的な 「サービス業」のある部分です。その典型は、小売店・飲食店等の店員であり、保育や介護といったケアの仕事です。

こういった仕事は生産設備の改善によって生産性を高められる製造業や、アイディア一つが大きな売り上げに繋がりうるクリエイティブな仕事とは異なり、生産性の向上が難しいため、賃金は低いままに留まる傾向にあります。この賃金の相対的な低さは、それらの仕事が一般に高度な専門性を必要としない(とみなされている)ことによって、さらに拍車をかけられることになるのです。

さて、この二極化において、国家の観点からすれば、高い「創造性」を持つ「クリエイティブ」な人材を多く育成することが、今後の国の繁栄の基礎となり、また個人の観点からすれば、そういった能力を身につけることで二極分化する社会のなかで上側の極に入り込むことが、社会経済的な成功の基礎となります。

おそらくはこのような認識のために「哲学的・批判的思考力」が世間でも称揚されているわけなのでしょう。「創造性」とは、とりもなおさず、私たちが「当たり前」と思っていることにメスを入れ、そこに別の可能性を見いだすこと、そのような批判的に相対化する姿勢に端を発するものなのですから。

こういうわけですから、「哲学」は、「哲学的思考」の訓練という形で、普通の意味でも「役に立つ」とは言えるわけです。それこそ、お望みであれば、いわれるところの「グローバル・エリート」たるための能力を手に入れるにあたって、「哲学」はまず収めるべき必修科目だとすら言えるのかもしれません。

しっかりと、ほんとうに、哲学すること

さて、以上で「哲学」なるものの意義について、ここで必要な限りでは論じきったので、あとは他にも「哲学」のための場所が存在するなかで、どうして私設研究室をあえて立ち上げる必要があるのか、その点の議論に進んでいきたいと思います。

この点を表現するための、本塾の目指すところを指し示す標語は「しっかりと、ほんとうに、哲学すること」です。

この「しっかりと」と「ほんとうに」は、それぞれ、本塾が実現したいことを「哲学カフェ・哲学対話」と「アカデミズム」に対して境界づける役割を果たしています。

これを言い換えれば、単に「自己流(≒哲学カフェ)」でも、単なる「哲学学(≒アカデミズム)」でもなく、「しっかりと、ほんとうに、哲学する」ための場所を目指すということです。

あくまで「目指す」であって、私がそれを実現しえているというわけではありません。実際、私は自身まだほとんど「哲学する」ことができていないと思っています。それはこれから(願わくは、これを読んでいる、みなさんとともに)始めていくべきことです。

それはそれとして、「しっかりと」と「ほんとうに」について、それぞれ語っていきましょう。まずは「しっかりと」の方から。

やはり「古典を読む」ことを―「哲学カフェ」のあとで

最近、普段はあまり触れることのすくない「哲学」的な話題について気軽に論じあう「哲学カフェ」や「哲学対話」と呼ばれる試みが少なからず流行しているようです。

もちろん、これは各人が内に秘めている「哲学(的思考)の芽」のようなものに顔を出させる試みとして、大きな価値があると思います。しかし、他方でそれは大半の場合は「芽生え」にすぎないことを忘れてはならないはずです。

実際、日々うちに抱えていた思いや、その場で思いついた考えを表出すれば、それがすぐに「哲学」だということにはならないでしょう。「哲学」には「哲学」らしい主題というものがあり、また「哲学」特有ともいうべき厳密性というものがあるわけです。「哲学」特有の思考の水準、ひとつの次元のようなものがあるのです。

私たちの「思い」や「考え」が即「哲学」であるというほど、「哲学」は甘いものではないのです。それが、それなりの仕方で「究極」を目指す営みとしての「哲学」の厳しさなのです。私たちは普通そこに達しえていません。私たちの思考のレベル―ということは、「言語」のレベル―は「哲学」に対して、おそらくは常に、不十分なのです。

つまり、私が言いたいのは以下のようなことです。

「哲学カフェ」や「哲学対話」は、お互いに尊重しあい、まずはその「思い」や「考え」を表出せしめあうという試みとして、重要な意義を持っています。

しかし、そこは「寄り添う」「同じ目線に立つ」という、いわば「水平性」の原理が優位で、哲学の持つ「厳しさ」の側面、私たちを「近寄らせず」、私たちがそこに到達しえていないということを示す、「高さ」の原理、いわば「垂直性」の原理が欠けている傾向にあるように思われるのです。そこには「そんなんじゃダメだ」という「否定」が欠けている傾向にあるわけです。

では、どうすればいいのでしょうか。ここで必要なのが、哲学の歴史における諸達成に学ぶこと、一言でいえば、「テクストを読む」こと、とりわけ、「古典を読む」ことだと思うのです。

「哲学」において、人類の歴史上、もっとも巧みだった人々の思考の筋道を、その難解さにしばしば弾き飛ばされながらも、その襞にいたるまで追いかけ、彼らの思考の息遣いを感じとれるほどにテクストを読み抜くこと。

そうすることでのみ、私たちは「哲学」らしい主題と、その取り上げ方、そして、「哲学」と呼ばれるに値するために必要な思考の厳密性を体感し、また願わくは、体得しうるはずだからです。

これを体得することが、私が思うところでは、自分で「哲学する」あるいは「哲学的・批判的に思考する」ことの前提なのです。そのためには、ただ自分なりの思いや考えを述べる、あるいは述べあうばかりでなく、「しっかりと」「テクスト」と向き合う必要があるというわけです。

ここで次の話題、「アカデミズム」に対する境界づけとしての「ほんとうに」についての話に移りましょう。

ただ「哲学する」ことを―「アカデミズム」の弊を排して

ここで出発点になるのは、上で述べたような哲学教育の場なら、「アカデミズム(=大学・大学院)」が存在しているのではないか、そこには「古典を読む」教育が存在しているのではないかという疑問です。

もちろん、その通りですし、アカデミズムが日本において「古典を読む」という文化を作り出し、維持してきたことに対して、最大限の敬意が払われるべきだと思います。

しかし、「アカデミズム」がいくつかの弊を免れていないこともまた事実であるように思うのです。

学生からみる「アカデミズム」の不純性

第一に、学習者の立場からすれば、「アカデミズム」、つまり、「大学・大学院」は参入障壁が高い。そこに入るには(もちろん無意味に課されているわけではないですが)入学試験があり、入学すれば、卒業のために、まとまった時間的・金銭的な投資が必要となるのです。なかなか気軽に入っていけるものではありません。

第二に、哲学にとって、今日の「アカデミズム」は不純物が多すぎるといえるように思います。

一つ目として、学生の側から問題を眺めてみます。現代の多くの大学生にとって「大学」は学問的探究のための場ではありません。彼らは各種の企業その他の多くの就職口が「大卒」を応募条件とし、またそれも有名大学であればあるほど有利であるという理由で、よい職を得るために「(有名)大学卒業」の資格を買いに来ているのです。

そういう人々にとって、大学の教育は―哲学の授業も含め―いわば「抱き合わせ販売」されているに過ぎないという面があります。四年間の時間と数百万のお金で「大卒資格」を売ってあげよう、しかも、いまなら「哲学の授業」もついてくるというわけです。

もちろん、これでは教員にせよ、真面目に「哲学」を学ぼうという学生にせよ、その熱意を削がれてしまうことになるでしょう。しっかりとした教育を行おうとする熱心な指導は、こういった学生にとっては厭わしいものなのですから。

ここ、大学が社会的な上昇プロセスに直接に組み込まれていることに、今日の大学教育がかかえる不純性があるわけです。

では、「大学院生」ならどうでしょうか。もちろん、大学院生の学業への意欲は一般に高いですが、現在の「アカデミズム」は、その意欲をもっぱら学問的な関心の探究に注ぎ込むことを許していないように思われます。

このことのもっとも大きな背景は、少子化のために大学が縮小期に入りつつあるにもかかわらず、90年代に大学院の重点化が行われたため、大学教員市場には基本的な供給過剰があることでしょう。

この状況をさらに悪化させるものとして、2000年代以降、国立大学の独立行政法人化にともなう予算削減で、学部の統廃合、教員の補充中止、教員の非正規化といったことが推し進められてきました。

この全体的な流れの中で、社会的な有用性に乏しいとみなされがちな人文系への風当たりは特に厳しく、さらに人文系の院生はアカデミズム以外のキャリアを切り開くことが一般に困難であることも、基本的な供給過剰という事態を深刻化させています。

この状況が大学院生に対する競争圧力を決定的に高めているのです。「就職したいのなら、とにかくはやくたくさん論文を書け!」というわけです。

このような環境では、自分の問題関心に基づいて、自らの経験に問い尋ねつつ、各種学問的知見を渉猟し、そして何よりも古今東西の哲学者と対話を深めながら、少しづつ自らの問題に輪郭を与えていき、そのことでもって新たな世界像、世界経験の新たな層を徐々に切り開いていくという哲学本来の自由な営みは、ますます困難になりつつあります。

というのも、はやくたくさん論文を書き、それをどんどん世間に認めさせていくためには、すでに設定された限定的な問題に限定的な視角から取り組んだほうがいいからです。こうして哲学の独創性や全体性とは無縁な「哲学」ならぬ「哲学学」的な論文が増えていくことになるのです。もちろん、それらはそれらなりの意義を有しますが、「哲学そのもの」とは言い難いでしょう。

大学全体からみる「アカデミズム」の不純性

このことと関連して、続いて二つ目として、今度は大学全体の立場から「アカデミズム」の問題性を見てみましょう。

「哲学」の根本には自由があります。パスカルはどこかで「哲学を馬鹿にすることが、最高の意味で哲学することである」といったことを述べていますが、そこに示される通り、哲学は哲学自身にも縛られておらず、絶えず限定を逃れつつ自由に批判的に思索します。このように「自由」であればこそ、哲学はいつでも新たに根本から問い、また全体的に問うことができるのです。

しかるに、「大学院生」に即して見たところでは、いまやこの「自由」は失われつつあり、「就職しなければならない」という命令、そこから派生する「業績を作らなければならない」という短期的目標をめがけた命令に、「哲学」は従属させられつつあります。

そして、このような「短期的目標」の支配は実際、学生に押し付けられるのみならず、大学全体に及んでいます。「市場競争」を金科玉条に掲げる、ふつう新自由主義と呼ばれている思考は、単なる経済政策というよりは、むしろ社会領域全体を覆い尽くさんとする一つの世界観であり、大学もその例に漏れません。

大学も「役に立つこと」「成果」なるものを盛んに求められており、国からの資金は「競争的資金」に転換されつつあります。この「競争的資金」なるものを手に入れるためには、何がしかの企画を立て、その「役立ち」をアピールしたり、その成果を報告する書類を大量に書いて、審査競争に勝ちぬかなければならないわけです。

こうして大学においても多くのことが短期的な有用性へと従属させられていきます。もちろん、自由であるはずの哲学的な思索を、このようなものに従属しながら遂行することは、ある欺瞞性の意識、ある依存性の意識をもたらすでしょう。それは思索の自由を萎縮させるでしょう。

そしてこの流れは、新自由主義なりグローバリズムなりが席巻する世の中において、一種の就職予備校として企業社会に依存し、また運営に関しては国の資金に関して依存している大学という場所においては不可避であるように思われるのです。

大学は企業や国の要求をはねつけるわけにはいかないのでしょうから。だとすればアカデミズムはますます「非哲学化」していくしかないでしょう。

まとめ:私設哲学研究室がなぜ必要なのか

こういうわけで、私としては、今日、民間に、あるいは私の好きな言葉でいえば、「野に在って」―「在野」―「哲学をする」ための場所が必要であるように思われるのです。「世界に野良な哲学を」というわけです。

それは「哲学カフェ」「哲学対話」的な各人への「寄り添い」の契機よりも、むしろ、「哲学(史)」が持つ「高さ」「厳しさ」「近寄り難さ」を体感しうる場所でなければなりません。

それは「アカデミズム」とは違って、「哲学」とは無関係な参入障壁や、「哲学」とは無関係な諸々の目的への従属関係を廃さなければなりません。

このようなことを通じて「しっかりと、ほんとうに、哲学をする場所」を作らなければなりません。ここに「私設哲学研究室」を創設する所以です。

それは、まずは個人的な研究・教育・発信から出発しますが、ゆくゆくは何らかの仕方で収益基盤を拡大し、複数の学徒が研究活動に勤しむことができる一種の「研究所」にしたいと思っています。

とはいえ、それはよくあるように研究「センター=中心」ではなく、「ペリフェリー=周縁」とでも名指されるべきものです。

社会の「中心」には、どうしても「中心」であるがゆえの狭い目的性が埋め込まれているものです。「中心」は社会を運営する立場にあり、社会を運営するためには秩序が必要なのですから。

こうして、自由な「哲学」の本質には、それの「周縁性」が属しているように思われるのです。「周縁」だからこそ、目的性に従属させられた「中心」が問いえない深度で問うことができる、「中心」からは見えないものを見ることができるという面もあるでしょう。

だからこそ、私たちの「しっかりと、ほんとうに、哲学すること」に続く、第二の標語は「Periphery, not Center, for Philosophy」になるわけです。

もし皆さまが、以上の企図に何がしかの意義を感じて、なんらかの仕方で本研究室に参加していただけると、うれしく思います。